小学校現場で奮闘している広島の教師が、目ざす子どもの姿の実現のために「いい授業をしたい」「楽しい学校生活を提供したい」と集って学び合っています。


どんな子どもを目ざしているのか

「教育の役割」ということから話す研修の機会をいただきました。

当然教育は、子どもたちのよりよい人格形成にかかわるものでなければなりません。

 

そして、教師のタイプとして、主に教え込みや鍛える方法をとる教師と、子どもたちが自ら学びたいと思えるような興味や関心を引き出し、活動に向かうようにする方法に軸を置く教師に大きく分かれていることを、改めて考えました。

 

「児童の主体性を育み自立に向かう力を!」「生きる力を!」「アクティブに!」と、いつの時代も主体性を求められてきました。

しかし学校現場では、子どもたちが主体的に物事を考えたり行動したりできない教えこみの方法が、依然として幅を占めている実態があります。

 

これら方法の違いの基盤として、「子ども観」「教育観」の違いがあります。

 

主に教えこみや訓練で子どもの力を伸ばそうとする教育観を持つ人は、「子どもは何も知らない、未熟な存在である。」という子ども観です。

一方、児童の考える場を大事にし、自らが学ぼうとする姿勢づくりに腐心する人の子ども観は、「子どもは本来皆、有能な力や向上心を持っている。」です。

 

これらの相反する子ども観、指導観は、おのずと指導方法の違いを生みます。

この違った価値観が混在する学校は、担任が変わる度に教育方法が変わるという子どもにとっては安心できない落ち着かない環境と言わざるを得ませんし、子どもたちの価値観の形成に迷いを生じさせます。

 

今こそ「教育とは」「子どもとは」「目ざす子ども像は」「教育方法は」等の教育実践の基本について、教師が共通にする研修が不可欠だと、改めて痛感しています。

年頭に思うこと

また、新しい年が明けました。

いつの頃からか、新年や誕生日の節目に「もう年はいらない」と、思い続けてきています。それと同時に、その一年一年に流れる時間の早いことといったらありません。

 

しかし、子どもたちに目を向けると、一年間に吸収する知識の量も質も考える力も莫大です。のみならず、友達とのかかわりの中で学ぶ人としての心の成長にも、目を見張るものがあります。

いやいや、一年とは言いません。一カ月あるいは一週間でさえ、「大きくなっている」と感じることがあり、それがまた教師の生きがいでもあり、活力にもなっています。

成長し続ける子どもたちにとって、「時間が速い」などといった感覚はないだろうと思います。

 

年頭に当たって、もう「年はいらない」とは言うまい、子どもの真似は到底できないまでも、年を重ねてよかったと思えることに挑戦する気持ちを持ち続ける努力をしようと思ったところです。

 

本年もまた、仲間と切磋琢磨して教師力アップを目ざし、子どもたちが輝く実践を重ねる「創」でありたいと思います。

みなさん、本年もよろしくお願いいたします。

「教え合う」活動

「アクティブラーニング」の声が大きく聞こえるようになってきました。次期学習指導要領改訂の核となる文言で、「主体的な学び」「対話的な学び」「子ども同士の協働」等の視点からの改善を意図しています。

 

しかし、これらは戦後以来求め続けてきた学びの姿です。また、「創」においても、開設当初から研究の中心においてきた目ざす子どもの姿です。

 

その学びの方法の一つとして、「教え合う」活動があります。共に学び、共に伸びようとする気持ちが、この教え合う姿に表れ、ここにこそ学校の意義があると思います。

 

新任教員指導でかかわっているクラス(2年生)の子どもたちの活動の一コマを紹介します。

 

九九を覚えています。覚えた九九を皆の前ですらすら唱えられたら合格としていますが、どうしても覚えるのが苦手な児童がいます。なかなか合格になりません。

ある休憩時間、4人グループのみんなが輪になって、一つの段の九九を一緒に唱えてはその子が唱えるのを繰り返しています。ある者は一緒に唱えながら書いた九九を見せたり伏せたり、少しずつ伏せるのを増やし、本人が覚えて言い終わったら一緒に大喜びです。そうして、全部の段を覚えて皆の前で唱えることができました。

 

今回は九九でしたが、それが本読みであったり跳び箱であったり・・・と、少しずつ広がって、いろいろな活動に見られるようになってほしい姿です。

 

子ども同士が「教え合う」活動は、共に学ぶという仲間意識を育みます。個々の友達のよさも弱さも強さも知り合えます。

友と一緒に「次はこんな勉強をしたい」という学習意欲もわきます。みんなでわかるようになることを喜びとする広い心が育ちます。

友達の悲しみに心を寄せることができます。だれかがいじめられたら、自分のこととして一緒に解決しようとします。一人ではないから、正義を強く訴えることができます。

 

だから、「教え合う」活動が溢れる学習や学級経営を進めてほしいと、強く願っています。

人間形成に向かう美術教育 

―みる・かく・つくる de  人づくり―

 

10日も前になりましたが、上記のテーマで、11月28日広島県造形教育研究大会三原大会が多くの参加者を得て開催されました。

 

午前中は授業と分科会で、各校種毎に会場校の公開授業や三原地区からの実践発表でした。

小学校会場の三原市立沼田西小学校では、全学級公開授業でそれぞれ工夫いっぱいの授業が行われました。

図画工作科研究は初めてだと言われる先生方が、校長先生のリーダーシップの元で授業公開されるに至る過程を垣間見ながら、いい機会を得られてお幸せな先生方だとの感想を持っていました。そして当日、はつらつとした表情で子どもたちに真摯に向き合われている先生方の姿に、その感をより強くしました。

 

午後は、若元澄男先生(比治山大学教授)を中心にした、大学教員等10名による5つのワークショップでした。

「みる活動を通して人づくり」「かく活動を通して人づくり」「つくる活動を通して人づくり」「おしゃべりを通して道探し」「展示品を通して情報交換」の5コーナーを、各20分ずつ回るという忙しい日程で行われました。 

      

清見嘉文先生(広島文化学園短期大学教授)と私は、清見先生のよきリードの元で「おしゃべりを通して道探し」コーナーを担当しました。

一グループ20分の中では十分伝え合えないもどかしさを感じながらも、美術教育を語り合う楽しさを感じた2時間でした。

 

近年、学校現場はますます課題が山積し、教員が教室を離れて研修に出かけることは、なかなか難しい状況になってきています。

ですから、こうした研究大会も、従来通り行うのはむずかしい時代になってきたと感じていた矢先でした。

しかし、このように一堂に会して授業を観たり共通の課題について意見の交換をしたりするという研修方法に勝るものがないのも事実です。

これからの研究大会のあり方をまた、模索し、創造しなければならない時だと考えます。

 

このことは、図画工作科に限ったことではなく、どの教科、どの教科外でも同じことが言えるでしょう。

「創」の会員それぞれが、自分の問題として考えていてほしいことだと思います。

 

また、本大会の研究テーマ「人間形成に向かう美術教育」の、「美術教育」をすべての教育活動に置き換えて日々子どもたちに向かわなければならないのだと、改めて思いました。

一つ一つのどの教育活動をも、人格形成に寄与するものだと常に認識して、子どもたちと向き合っていきたいものだ思います。

 

 

ほめて育てる

カウンセリングの療法に触れる機会がありました。

アーロン・T・ベックによって開発された認知療法では、人間の認知の過程を3段階に捉えています。

その一段階である「中核信念」の自分を取り巻く世界の一定の概念について、次のような一例を示しています。

 

「幼い頃から『頭が悪い』と親から言われ続けた人は、『自分は頭が悪い』と思い込んで成長します。概念は、このように自分で気づかないうちに築かれていくのです。」

 

そう言えば、私が母になった時、母から言われた言葉「『いい子だ』『いい子だ』と言って、いいところをほめて育てなさい。」が、育児の糧であり続けました。

それは母もまた、祖母に言い聞かされた言葉で、我が家の子育ての教訓として語り継がれてきたものだったようです。

まるでカウンセリングの手法を、祖母の時代から(もっと昔からかもしれませんが)知っていたかのようだと思いました。

 

教育という仕事に携わってきて、「子どもはほめることで育つ」と一層確信するに至りました。

ほめられることによって、知らず知らずのうちに自分のよさを認識し、「これでいいのだ」という自信となり、それが人格形成の基盤になることを思えば、幼児期・児童期の子どもたちは、いい点をたくさん見つけられ、ほめられて育てられなければならないと思います。

相手を思いやる気持ちは、自分が認められることによって育まれるものだと思います。

叱責や説教ばかりで育てられる子どもは、言い訳をしたり嘘をついたりして自分を守ることで精一杯です。

大人の子どもへの接し方が彼らの将来を決めるという責任の重さを肝に銘じ、よさを見つけてほめることを心がけ、日々子どもたちに向き合いたいと思います。

 

カウンセリングの療法に、教育の方法を重ねて考えたひと時でした。

 

 

 

 

 

ものと語りながらかく(書く・描く)

先日、高田敏子氏の詩「じっと見ていると」の学習を、2年生の子どもたちとしました。

そして、自分たちも高田さんをまねて、 いろいろなものをじっと見てその声を聞いた詩を創りました。

 

〇 えんぴつを じっと見ていたら

  えんぴつが言ったの。

  「しんがなくなるまで ちゃんとだいじにつかってね。」

 

〇 学校をじっと見ていたら

  学校が言ったよ。

 「きょうも みんな 元気に来るかなあ。」 

 

〇 ぞうきんを見ていたら

  ぞうきんが言いました。

  「よごれたら きれいにあらうんだよ。」              等。

 

このように、自分以外のものと語り合うということは、立場を変えてそのものになり、その相手の気持ちを考えることであります。それを文章に表現することによって、対象の気持ちをより確かに認識し、どんな時でも相手の気持ちを思いやるという子どもたちの心を育てることにつながると考えています。

 

絵をかくときも同様です。

絵をかく対象と、心の中で語りながらかくように指導します。絵をかきながら対話し、そのものの気持ちを考えるという内面的な営みが、子どもたちの心を育て、よりよい表現につながると思うからです。

 

「ものに語るかける」「ものの気持ちを考える」、表現につなぐこんな活動を、意図的に取り入れたいものだと考えています。

 

 

 

書くことは見ること・考えること・・・・

今年度、創では「言葉の力」の育成を目指しています。

「読む」「書く」「話す」「聞く」のどれもが、言語力をつけるためにも人間力を高めるためにも大切な力で、それぞれは連動していることを、実践を踏まえながら研究を進めているところです。

 

その中の「書く」ことについて、目に留まった文章がありました。

 

先日他界した元広島市立緑井小学校長 井西敏恵 の校長室だより集「つぶやき」のあとがきに、

「子どものよさ、保護者や地域のよさ等は、子どもの活動を見続けることでわかる。そして、それを文章化することによって子どもの見方、子どもへのかかわり方がより深くなる。更にその文章化したものを教職員や保護者に発信することで、次に自分が何をすべきかわかってくる。このような考えで始めた通信ですが、実際にはそれぞれのよさをどれだけ見つけることができたかと問われると自信がありません。……」

と記していました。

 

また、小さい体の哲学者と呼ばれている 中島芭旺 の著書「見てる、知ってる、考えてる」には、次の一節がありました。

 

 本を書くという事は、

 自分という人間のことを知るという事。

 自分を見て、

 自分の頭の中を知りなぜそう思うのかを考える様になる。

 

 

「書くこと」は「見ること」「知ること」「整理すること」「理解すること」「考えること」……等につながる大切な活動であることを、期せずして二人の文章が語っていたのが目に留まり、心に残りました。